- もともと大型客船で採用された、座席のクラス分け。
船の一等船室、鉄道の一等車、そして旅客機のファーストクラス。
人間は自らの豊かさや身分の高さを確かめるために、
プラスアルファの料金を払い、快適な移動空間を求める。
欧米のクルマは、日本には皆無である「階級意識」に習って作られ、
それぞれのラインアップを形成している。 - 文●沢村慎太朗
ファーストクラスは人間心理による必然飛行機のファーストクラスに乗ると、どんな気分が味わえるのか。 もちろん具体的な利点や有難味がそこにはある。座席は広いしリクラインはフルに効いて身体を伸ばして眠れる。アメニティの備えもエコノミーとは段違いだし飯もいい。 だがファーストクラスに乗ってよかったと思う一番の瞬間は乗るときと降りるときである。搭乗ゲートで案内が始まる。乗客がゲートの前に集っている。その人ごみを尻目にファーストのお客は先に搭乗できる。降りる際はもっと彼我の差が明確だ。機が着陸する。ボーディングブリッジが飛行機の乗降口に取りつくまで、しばし時間がかかる。ようやくドアが開く。そのとき真っ先にどうぞと案内されるのは、もちろんファーストのお客なのだが、ドアはエコノミー区画との境にあって、仕切のカーテン越しにエコノミーのお客が通路に立って列をなして苛々して待っているのがちらりと見える。優越感を抱く瞬間である。ただの優越感ではない。つい、こちらとあちらでは人間の種類が違うという思念あるいは錯覚を抱いてしまう。そこに人間の階層とか区別のようなものが存在するような気にさせられるのである。 ファーストクラスの本質的な存在意義はじつはそこにある。具体的な現世利益だけでそれは量れるものではない。人間には階層というものが存在して、その上のほうにいるという満足感を与えるのがファーストクラス。航空会社がこれを設定し、目を剥くほど高い料金でこれを利用するお客がいるという事実は、そんな階層意識の存在証明である。 だが、そういう階層意識は、我が国には存在しないと言っていい。明治維新という革命で日本は、天皇の元という条件付きではあり完全とは言えなかったが、万民の平等を成し遂げた。第二次世界大戦に負けて、その万民平等はさらに徹底されることになった。階級や階層は、法律や施政の枠組みの上でも、人々の意識の上でも存在しなくなった。 それゆえにクルマも、それに倣うことになった。自動車という商品には値段の高い安いや、サイズの大小や、装備や性能の多寡によるバリエーションがある。だとすれば、そこにクルマの階層というものができあがってもおかしくない。だが日本のメーカーはその厳然たる事実をうやむやにするような戦法を採ってきた。たとえばトヨタでもっとも位の高いクルマは何かと考えると悩んでしまう。クラウンは初代以来トヨタの看板となっている高級車だが、現在ではその上にマジェスタがいる。 しかし値段と大きさと性能ではそうでも、社内で奉られ優先されるのはクラウンだ。ところが厄介なことにトヨタはレクサスというプレミアムブランドを擁する。そのレクサスの最上級モデルはLSであり、LSはクラウンやマジェスタが国際的な枠組みに放り込むとEセグメントなのに対して、こちらはLセグメントである。ではLSが最も偉いのかというと、トヨタにはセンチュリーというフォーマルサルーンがあり、皇室車輛としても使われている。どれが最も位が高いのか分からなくなるような商品展開なのだ。 翻って、欧州はそうではない。欧州には依然として階層というものが存在している。ご時節柄、あからさまにはなっていないけれど、人間を区分けする壁というものが厳然として残っている。筋肉で稼ぐ者、脳ミソで稼ぐ者、稼がなくても余裕で暮らせる者……日本のように生まれた時に横一線スタートでその区分けのどこに入るかの競争をするのでなく、生まれによって線引きがあるのだ。 だからクルマもその階層の区分けに従って作られる。A〜Lまでのセグメントは、単にサイズの大小や値段の高低を示すのでなく、属する階層の象徴であり、自動車メーカーは象徴になるようにクルマを作る。あちらでは勤め人が役付になるとEセグメント車を会社から報酬の一部として宛てがわれるが、定年で退職して自腹でクルマを買う段になるとEセグでなく、みなDセグを買う。小金が転がり込んだからといってBセグ車の持ち主が浮かれてLセグを買ってみることはまずない。会社による壁もある。欧州でクルマは、いま属している社会階級を物語る印であり、人々は属する階級に呼応するクルマを買うのだ。 つまり、こういうことである。ファーストクラスを現世利益でなく精神的な充足感や自己肯定の証として考えるならば、その方針に沿ったクルマは必然的に欧州車になるのだ。
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