|
幕末に思いを馳せる水戸の史跡巡り |
|
|
|
志高く悲しき学舎は幕末史の証言者 |
300年間続いた徳川幕府も衰退の色を濃くしていた当時、水戸藩主の斉昭(なりあき)は、次代の水戸藩さらには国の将来を担う優秀な人材の育成を行う藩校「弘道館(こうどうかん)」を創設した。
あらゆる学問を修められる、今日の総合大学ともいえる弘道館の設立はもともと、「黄門さま」として知られる第2代水戸藩主の徳川光圀(みつくに)の夢であった。しかし、一大歴史書「大日本史」の編纂(へんさん)で多忙を極めた光圀は、弘道館設立の計画を実現することはできなかった。
光圀の意志を継いで弘道館を創った斉昭は、「学問は一生涯行うもの」という考えのもと、卒業というものを設けず、ここは老いも若きも共に学べる場であった。
弘道館は「国家の独立と発展をまっとうするためには、まず優れた人材、真の日本人を育成しなければならない」という理念によって、質の高い教育を行っていた。実の息子で後に最後(15代)の将軍となる慶喜(よしのぶ)も弘道館で学んでいる。
「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」を唱え、開国に強く反対した斉昭は、開国を推進する井伊直弼(いいなおすけ)と対立する。その後、日米修好通商条約が大老となった直弼によって結ばれ、斉昭は破れることになる。そして61才で失意のうちに亡くなり、それと同時に強力なリーダーを失った水戸藩は分裂し、幕府も衰退を加速する。
その後、明治維新に際し藩では、改革派と保守派が激しく対立した。会津戦争で敗れた保守派はかつての学舎、弘道館に立てこもるものの大量の砲撃をあび、弘道館もその多くを消失し閉鎖される。
弘道館の歴史を知った香織さんは「志高く創られた学校なのに、不幸ですね……」としんみり。 |
|
●藩主の居間で、諸公子の教育も行われた「至善堂(しぜんどう)」。徳川慶喜もこの部屋で学び、大政奉還後に謹慎したのもここであった。 |
●正門、至善堂と並び、国の重要文化財に指定されている「正庁」。荘厳な雰囲気と簡素、質実剛健な学舎(まなびや)の空気が今も漂う。 |
|
|
●弘道館の中を歩いていると、至るところで目にするのが徳川の家紋「丸に三葵(あおい)」。 |
●弘道館には資料室も設置され、幕末期を中心とした貴重な歴史的資料が数多く展示されている。 |
|
駆け足で体験できる水戸、幕末を知る旅 |
偕楽園、弘道館を訪れ、幕末期の明暗を垣間見たスタッフ一行は「納豆の里っていうテーマとはかけはなれたドライブになっているね!」などと冗談を言いながら、弘道館を後にした。
次に訪れたのは県立の歴史館。じつはここに明治に入って建てられた小学校が、コンディションよく移築されているというのだ。
江戸時代の建物とはまったく違うデザインの「旧水海道小学校」を眺めていると、文明開化の波が急速に日本の隅々にまで浸透していった様子がうかがえる。
「300年も孤立していた反動のせいか、すご〜く西洋っぽいですよね!」と、香織さんは興味深げに小学校の校舎を眺める。
開国に対して頑なに反対した水戸藩の思想を育んだ弘道館、対峙する西洋風の小学校。その前に立つと、時間を超えて袴姿の学生と方や半ズボン、スカートの子供たちの姿が目に浮かんでくる。
本格的なそばと創作そばメニューで知られる「幸月庵(こうげつあん)」で食事を楽しみながら、彼女は「歴史上のとても大切な出来事を身近に感じられました」と満足げな様子。
それから我々は、水戸納豆を土産に買い、帰路についた……。 |
|
●「つけ鴨そば」をオーダーした香織さんは「美味しい! 鴨も、おそばも最高!」とご満悦。 |
|
弘道館(こうどうかん) |
|
旧水戸藩の藩校で、第9代藩主の水戸斉昭が設立した。「すぐれた人材、真の日本人」を育成する目的で、文武両道を基本に医学や薬学、天文学、さらに蘭学を扱う総合大学であった。 |
|
|
|
旧水海道小学校 |
|
地元住民からの寄付によって建設が進められた洋風建築の小学校。築100年以上の校舎は、1973年に茨城県立歴史館の庭園内に移設されたもので、明治期の文明開化の雰囲気を伝える。 |
ADDRESS |
茨城県水戸市緑町2-1-15
TEL:029-225-4425(茨城県立歴史館) |
|
|
|
幸月庵(こうげつあん) |
|
常陸秋そばを原料にあらゆる創作そば料理でもてなす幸月庵。一般的なそばも美味だが、そば寿司(トロ巻き)や板そば(生ウニ)などの創作メニューも人気が高い。店内は落ち着いた雰囲気。 |
ADDRESS |
茨城県水戸市石川3-4140-3
TEL:029-251-5626 |
|
|
|
|
|
|
|
|
← クリックすると拡大します |
|
|
|
|
|
|
バックナンバー |
|
|